長福寺は、徳島県三好市に所在する真言宗御室派の寺院であり、瑠璃山、医王院(いおういん)と号します。本尊は薬師如来で、四国八十八箇所第六十六番札所雲辺寺の奥の院としても知られています。また、新四国曼荼羅霊場の第六十三番札所であり、阿波秘境祖谷渓・大歩危七福神霊場巡りの福禄寿を祀る寺院でもあります。
本尊の真言は「おん ころころ せんだり まとうぎ そわか」と唱えられ、御詠歌は「雷難を よけてとどむる 浄瑠璃の やっこの光 とどむ大月」と伝えられています。
長福寺の歴史は古く、寺伝によれば、奈良時代の天平年間(729年 – 749年)に行基がこの地を巡錫中に、雷雨に遭い一軒の家に雨宿りを求めたことに由来します。その家の老婆が雷を非常に恐れていたため、行基は彼女を安心させるために薬師如来(雷難厄除薬師如来)を刻み、脇士として不動明王、多聞天、日光月光菩薩、十二神将を安置したのが当寺の始まりとされています。
さらに、行基は大月大明神(現在の四所神社)の御正体として聖観音菩薩を刻んだとされ、長福寺は大月大明神との関係において別当寺としての役割を果たしていました。
長福寺は、時代と共に寺運により移転を繰り返したと言われています。戦国時代の天正年間(1573年 – 1593年)には、白地城主である大西覚養によって現在の地に移転され、再建されました。江戸時代には一時的に「大月寺」とも呼ばれていたことがあり、『阿波志』などの文献では「大月寺」または「長福寺」と記されています。
長福寺の門前には、樹齢約400年と推定されるイチョウの木が立っています。この木は、天正年間に大西覚養が寺院を移転した際に植樹されたと伝えられており、「オハツキイチョウ(御葉着イチョウ)」と呼ばれています。特徴として、葉柄の先と葉の付け根に1個の実を着生することがあり、希に2個の実を付けることもあります。また、ラッパ状の葉を持つ「ラッパイチョウ」としても知られています。
このイチョウは1954年(昭和29年)1月29日に徳島県の天然記念物に指定され、その希少な形態や歴史的背景から、多くの参拝者や観光客が訪れるスポットとなっています。
長福寺は、四国八十八箇所巡礼や新四国曼荼羅霊場巡りの札所としても重要な位置を占めています。
四国八十八箇所の第六十六番札所である雲辺寺の奥の院として、巡礼者にとっての重要な拠点となっています。また、雲辺寺から長福寺までの距離は27.0kmで、次の札所である大興寺までは43.8kmあります。
新四国曼荼羅霊場巡りでは、持性院(第六十二番札所)から続く第六十三番札所となり、次の札所である蓮華寺(第六十四番札所)へとつながります。多くの巡礼者がこの霊場を訪れ、精神的な修行や祈願を行っています。
長福寺は、阿波秘境祖谷渓・大歩危七福神霊場巡りにおいて福禄寿を祀る寺院です。弁才天を祀る安楽寺、寿老人を祀る持性院と共に巡礼の対象となっており、多くの人々が福禄寿のご利益を求めて参拝に訪れます。
長福寺は、徳島県三好市の山間部に位置していますが、観光客や巡礼者にとっても訪れやすい場所です。最寄りの主要交通機関として、四国八十八箇所巡りのルートに含まれるため、巡礼者にとってもアクセスしやすい場所となっています。
四国八十八箇所巡礼では、第六十六番札所雲辺寺の奥の院として、次の札所である第六十七番札所大興寺と共に重要な位置にあります。また、新四国曼荼羅霊場や阿波秘境七福神霊場巡りの一環としても、多くの巡礼者が訪れるスポットです。
その他の関連する霊場や寺院には、持性院(第六十二番札所)や蓮華寺(第六十四番札所)があります。これらの霊場を巡りながら、徳島県の自然美や歴史的建造物を楽しむことができます。
長福寺を訪れて、歴史と信仰を体感しよう
徳島県三好市にある長福寺は、歴史ある寺院として多くの人々から信仰を集めています。雷難厄除薬師如来や福禄寿を祀るこの寺院は、巡礼者や観光客にとって心の安らぎを与える場所です。また、樹齢400年を超えるオハツキイチョウなど、自然の美しさも感じられる長福寺をぜひ訪れてみてください。