島の形状と名前の由来
島の形がひょうたんに似ていることから、「ひょうたん島」と呼ばれています。また、現在の徳島町城内・東出来島町境付近の古い地名「瓢箪島」も由来とされています。1984年(昭和59年)には、徳島市主催の「魅力あるまちづくり講演会」で、徳島県建築士会青年部が「ひょうたん島ルネッサンス構想」を提案したことがきっかけで広く知られるようになりました。
自然環境と景観
ひょうたん島は「とくしま88景」に選定されています。島の最高所は城山で、標高61.7メートルですが、それ以外のほぼ全域は標高2メートル前後の低地が広がっています。かつては寺島川が島内を流れていましたが、鉄道の敷設に伴い姿を消しました。
交通の要所としての重要性
島内を縦貫する国道192号や横断する国道11号が交通の主要な軸となっており、両者が交わる徳島本町交差点は、徳島市内で最も重要な交通結節点のひとつです。また、島中央部には徳島駅が位置し、ここからは高速バスや特急列車が発着するため、交通の拠点としても機能しています。
商業・業務地区としての発展
島の東側には、徳島市の中心業務地区が形成されています。徳島本町交差点から元町交差点にかけてはオフィスビルが立ち並び、徳島駅周辺にはショッピングセンターや百貨店が集積しています。島内の商業地や住宅地の公示地価は、徳島県内で最も高い値を記録しています。
市民の憩いの場としてのひょうたん島
徳島中央公園をはじめ、島を取り囲むように整備された公園は、市民の憩いの場として様々な用途で利用されています。特に徳島中央公園は徳島城跡に位置し、歴史的な価値も兼ね備えています。
ひょうたん島の歴史
近世のひょうたん島
江戸時代には、現在のひょうたん島は徳島、寺島、出来島という3つの島に分かれていました。これらの島は、徳島城の内廊に位置しており、徳島藩の重要な地域として機能していました。瓢箪堀と呼ばれる堀が存在し、島の周囲に湿地帯が広がっていましたが、近世までに埋め立てが行われました。
近代以降の変遷
明治時代には寺島川と瓢箪堀が埋め立てられ、ひょうたん島は現在の形状に変わりました。徳島城跡は現在では徳島中央公園として市民に親しまれています。また、寺島には徳島駅が設置され、出来島は工場地域として発展しました。
商業地区としての発展
内町地区の商業の歴史
内町地区は、江戸時代から阿波藩の御用商人が集まる商業の中心地として栄えていました。しかし、明治時代以降は新町地区が商業の中心地として発展し、内町地区の重要性は一時的に低下しました。1899年に徳島駅が開業すると、再び商業の中心地として発展し、多くの商店が立ち並びました。
終戦後の復興と発展
第二次世界大戦後、1945年の徳島空襲により内町地区は全焼しましたが、戦後は迅速に復興が進みました。昭和30年代には大型商業施設が相次いでオープンし、徳島市の商業の中心として内町地区は再び栄えました。また、徳島駅を中心に路線バスが整備され、内町地区は公共交通機関のターミナルとしても成長しました。
アミコビルの開業
1970年代には、徳島商工会議所によって商業近代化計画が立案され、駅前地区と新町地区を中心とした商業開発が進められました。この計画の一環として、1983年にアミコビルがオープンし、大手百貨店のそごうが主要テナントとして入居しました。これにより、内町地区の集客力は大幅に向上し、徳島市の商業の中心としての地位を確立しました。
郊外型商業施設の影響
アミコビルの開業後、徳島駅前地区は発展を続けましたが、1990年代以降は郊外型の大型ショッピングセンターやロードサイド店舗の進出により、商業競争が激化しました。特に、2001年に開店したフジグラン北島は、県内初のシネマコンプレックスを備えた施設で、多くの買い物客を郊外に引き寄せました。
内町地区の現状と課題
商業施設の現状
内町地区では、そごう徳島店やクレメントプラザなどの商業施設が共同でバーゲンセールを開催するなど、顧客流出の抑止に努めています。また、名店街ビルのリニューアルや、大手チェーン店の進出など新たな顧客を呼び込む取り組みも行われています。さらに、そごう徳島店には2010年にロフトが出店し、テナントの入れ替えも進められています。
今後の展望
郊外の大型ショッピングセンターとの競争が続く中、内町地区の商業施設は今後も新たな発展を目指しています。地域の商業力を強化するため、より多様な顧客層に対応した取り組みが期待されています。