忌部神社は、徳島県吉野川市山川町忌部山に鎮座する神社です。阿波忌部氏の祖神を祀り、古くから信仰を集めてきた名社で、式内社(名神大社)の論社の一つとされています。
忌部神社は、旧社格が村社であり、かつては国幣中社に指定されていたこともあります。また、別名として山崎忌部神社(やまさきいんべじんじゃ)とも呼ばれています。
忌部神社の起源は、古代に遡ります。『古語拾遺』によれば、天太玉命の孫神である天富命が、穀の木や麻の栽培に適した地を求め、阿波国に定住しました。これにより、阿波忌部氏が発展し、彼らは大嘗祭において木綿や麻布を献上する役割を担うようになりました。また、当神社の後方には「黒岩」と呼ばれる山腹に6世紀後半に築造されたとされる円墳群が存在し、当地には古くから氏族集団が住んでいたことが示唆されています。
社伝によれば、忌部神社の創建は神武天皇2年2月25日と伝えられ、阿波の忌部氏が祖神である天日鷲命を祀ったことに始まるとされています。当初、神社は「黒岩」の地に鎮座していたとされますが、中世の地震により現在の場所に移されたと伝わります。
中世には、河野通信や源義経、那須与一といった武士たちからも崇敬を集め、戦勝祈願のために太刀や弓矢が奉納されました。また、源頼朝の命により田畑が神社の供料として寄進された記録も残されています。
藩政期になると、兵乱や自然災害により神社は次第に衰退し、その所在すら不明となりました。しかし、1801年には村民の請願により再興が図られ、神職の系譜も回復されました。
明治時代に入り、忌部神社は村社に列せられましたが、所在が不明とされたため、国幣中社への昇格は論争を引き起こしました。結局、1881年に五所神社が式内忌部神社とされ、忌部神社は村社に戻されました。
明治以前、忌部神社は「天日鷲神社」とも称されていました。また、近世には神社が王子権現の境内に祀られていたため、「王子権現」としても知られていました。
忌部神社は古くから高い神階を有しており、849年には従五位下に昇進し、その後も昇格を続けました。878年には正五位下、885年には従四位下に昇進し、延喜式の時代には官幣大社に列せられました。
本殿は切妻造平入の板葺屋根で、棟には千木・鰹木が置かれています。棟札によれば、享保7年(1722年)に造替されたものです。
境内には「麁服織殿跡」があり、大嘗祭に際して阿波忌部氏の後裔が麁服(あらたえ)を織った機殿の遺跡とされています。これにより、忌部神社は大嘗祭に深く関わる神社としても知られています。
忌部神社の祭神は以下の通りです。
忌部神社には、旧山崎村村域に鎮座する7つの境外摂社が存在します。
平成2年(1990年)の大嘗祭では、徳島で栽培された麻を使用して当神社境内で織られた麁服が献上されました。令和元年(2019年)の大嘗祭でも、同様に美馬市木屋平で栽培された麻が使用されました。
忌部神社は、古代から現代に至るまで阿波忌部氏の歴史と密接に関わる重要な神社です。大嘗祭との深い結びつきを持ちながら、地域に根ざした信仰を今に伝えています。