古墳の位置と特徴
渋野丸山古墳は、徳島県東部、徳島平野南部に位置する多々羅川(勝浦川水系)の左岸にある丘陵尾根を切断して築かれた大型の前方後円墳です。この地域には勝浦川下流域を中心に複数の古墳群が点在しており、渋野古墳群もその一つです。渋野丸山古墳は、この古墳群の中でも特に重要な「盟主墳」として位置づけられています。
この古墳は1923年(大正12年)の『勝浦郡志』で紹介されており、1999年度(平成11年度)以降に行われた発掘調査により、その詳細が明らかにされました。墳形は前方後円形で、前方部が西を向いています。墳丘は三段にわたって築かれており、その全長は105メートルに達します。この大きさは徳島県内で最大であり、四国地方では香川県さぬき市にある富田茶臼山古墳(139メートル)に次ぐ規模です。
墳丘の構造
墳丘は外表に葺石が施されており、円筒埴輪列や朝顔形埴輪、家形や盾形、舟形などの形象埴輪が配置されていました。また、墳丘の南側には造出(つくりだし)と呼ばれる特殊な構造が付随しており、四国地方では渋野丸山古墳のみで確認されています。造出からは多数の小型壺や埴輪片が発見され、当時の埋葬文化を知る貴重な資料となっています。
墳丘の周囲には左右非対称の周濠が巡らされ、古墳全体の長さは118メートルに達します。この周濠は墳丘を囲む保護の役割を果たしており、周濠を含めた古墳全体の保存状態は比較的良好です。
埋葬施設と墳頂
渋野丸山古墳の埋葬施設については、後円部にあると推定されていますが、発掘調査が実施されていないため、その詳細は不明です。しかし、地元の伝承では天井石が確認されたと伝えられており、レーダー探査により後円部に盗掘坑と推定されるくぼみや、東西方向に広がる石室と見られる反応が確認されています。幅約5メートル、長さ約2.5メートルのこの石室は、かつての埋葬施設の一部である可能性があります。
また、長谷寺(徳島市渋野町宮前)には、後円部墳頂に建てられていたという板碑が伝わっており、これは古墳が後世にわたって宗教的な意味合いを持ち続けたことを示しています。
渋野丸山古墳の歴史と保存
歴史的背景
渋野丸山古墳は、徳島県における古墳時代中期前半の5世紀に築造されたと推定されています。古墳時代前期には、鳴門や板野地域、また気延山地域で古墳の築造が活発に行われていましたが、時代が進むにつれて勝浦川下流域でも古墳の築造が行われるようになりました。渋野丸山古墳はその中でも特に規模が大きく、畿内の影響を強く受けた古墳とされています。
この古墳が築かれたことで、徳島県域における古墳時代の勢力図が大きく変わり、渋野丸山古墳を最後に、徳島県内では前方後円墳の築造が終わることになりました。このことから、渋野丸山古墳は阿波地域の古墳文化や、畿内勢力との関係性を知る上で重要な遺跡とされています。
史跡指定と保存活動
1923年に『勝浦郡志』で紹介された後、渋野丸山古墳は1953年に徳島県指定史跡に指定され、さらに1988年には民家移転に伴う発掘調査が行われました。この調査により、古墳の全容が徐々に明らかになり、その歴史的価値が再評価されることとなりました。
1999年から2005年にかけて、徳島市教育委員会による複数回の発掘調査が実施され、墳丘や周濠、埴輪の配置などが詳細に調査されました。また、2002年には奈良文化財研究所によるレーダー探査、2005年には富山大学によるレーダー探査が行われ、埋葬施設の可能性が示唆されました。これらの調査結果を受けて、2009年には国の史跡に指定され、2012年にはその範囲が拡大されました。
保存整備事業
2013年から2016年、および2017年から2019年にかけて、渋野丸山古墳の保存整備事業が実施されました。この事業では、発掘調査に基づく保存措置が行われ、古墳の風化や破損を防ぐための対策が講じられました。これにより、渋野丸山古墳は今後も保存され、後世にその貴重な文化遺産を伝えることが可能となっています。
古墳の構造詳細
墳丘の規模
渋野丸山古墳の墳丘の規模は、徳島県内で最大級のものです。その詳細は以下の通りです。
古墳全体
- 古墳総長:118メートル(周濠を含む全長)
- 墳丘長:105メートル
後円部
- 直径:69メートル
- 高さ:18メートル
- 3段に築成されている
前方部
- 幅:59メートル
- 高さ:16メートル
- 3段に築成されている
くびれ部
- 幅:44メートル
造出
墳丘南側には幅約12メートル、奥行き約5メートル、高さ約2メートルの造出が確認されています。この造出は、四国地方では渋野丸山古墳でしか見られない特徴です。
埴輪
墳丘には円筒埴輪列が巡らされ、朝顔形埴輪や盾形、家形、舟形などの形象埴輪も確認されています。