神社の歴史
多祁御奈刀弥神社の創建年は明確には記されていませんが、現在の社殿は1720年(享保5年)に建てられたとされています。また、この神社は、江戸時代に徳島藩を治めた蜂須賀家から特に尊崇を集めていました。特に御例祭の際には、藩主や代参者が神社に参拝し、1627年(寛永4年)には蜂須賀光隆が祈願を行い、奇瑞が現れたと伝えられています。
また、鮎喰川(あくいがわ)の出水によって参拝が困難になることもあったため、蜂須賀家は徳島城に近い場所に諏訪神社を分霊したとも言われています。
神社の由緒
多祁御奈刀弥神社の社伝記には、「光仁帝の宝亀十未年(779年)、信濃国諏訪郡南方刀美神社(現在の長野県諏訪大社)が阿波国名方郡諏訪大明神を移遷した」との記録があります。これは、記紀の成立後に、阿波から現在の諏訪大社へ神が移されたことを示しています。つまり、建御名方神が阿波国の名方郡諏訪村(旧高足郷)から長野県の南方刀美神社に移されたことが、神社の記録に残されているのです。
祭神について
多祁御奈刀弥神社の祭神は、建御名方命(たけみなかたのみこと)と八坂刀売命(やさかとめのみこと)です。これらの神々は、神社の歴史や信仰に深く関わり、地元の人々からも崇敬されています。
境内社
多祁御奈刀弥神社の境内には、地神社(ちじんじゃ)があります。これは土地の神を祀る神社で、地域の繁栄や安全を祈る場として大切にされています。
交通アクセス
多祁御奈刀弥神社へのアクセス方法として、JR徳島線の下浦駅から徒歩約25分、または牛島駅から徒歩約20分で訪れることができます。公共交通機関を利用しながら、静かな神社の雰囲気を楽しむことができます。
蜂須賀光隆について
多祁御奈刀弥神社に関連して名前が挙がる人物として、徳島藩第3代藩主である蜂須賀光隆(はちすか みつたか)がいます。彼は徳島藩を治め、同藩の繁栄に大きく寄与した人物です。
蜂須賀光隆の生涯
蜂須賀光隆は、2代藩主蜂須賀忠英の長男として生まれました。幼名は千松丸、初名は至政(よしまさ)といいました。1642年、13歳のときに徳川将軍家に初めて謁見し、将軍徳川家光から「光」の字を賜り、光隆に改名しました。そして、1652年に父の死去に伴い、徳島藩第3代藩主となりました。
彼の治世中、蜂須賀家は多くの文化的事業を支援し、藩の繁栄に努めました。四国八十八ヵ所の常楽寺の再興や、刀工氏吉の招聘、井戸寺の本堂の再建など、数々の事業が彼の指導の下で行われました。
蜂須賀光隆の業績
蜂須賀光隆の業績の一つとして、1627年に多祁御奈刀弥神社で祈願を行い、奇瑞が現れたとされることが挙げられます。また、彼は藩内の様々な宗教施設や文化施設の復興に努め、藩内の文化的発展に大きく貢献しました。
1666年に37歳で亡くなり、彼の墓所は徳島市助任の興源寺にあります。彼の跡は、長男である蜂須賀綱通が継ぎました。
蜂須賀家と多祁御奈刀弥神社の関わり
蜂須賀光隆をはじめとする蜂須賀家は、多祁御奈刀弥神社を崇敬し、代々参拝していました。蜂須賀家と多祁御奈刀弥神社の関係は深く、その歴史的なつながりが現在も続いています。特に、蜂須賀光隆が祈願し、神社の奇瑞を記録した出来事は、蜂須賀家と神社の強い結びつきを示すものとして、今も語り継がれています。